鵜の木の頃の話

昨晩も酒を飲んでいた。付き合いの長い同業者で、気心は知れている。いつも同じような話をしているのだが、ふと「暗闇が怖い」という話になった。

その人は、「明かりを付けっぱなしでなくては寝られない」という極端な方だったが、私と言えば、暗闇はあまり怖くない。

 

私の「暗闇が怖い」は、足元が見えなければ危なくてしょうがない、という意味で、「電気なしでは寝られない」という類ではない。幽霊・妖怪・怨霊が怖いという気持ちは「分からないではない」のだが、正直真っ暗な夜道であれば、側溝に落ちる恐怖の方がずっと勝る。

 

そんな私だが、ならばそういった超常的ななにかを信じていないのかと言えば、さにあらず。どちらかと言うと、信じている方だ。なぜ「方」なのかと言えば、私はそういったものの存在は信じているけれど、残念ながらそういったものが「見えない方」の人間だからだ。

 

見えない方だから、見たことがない。残念なことだが、そのために私はそういったものが存在するのだ、と強く擁護することが出来ないでいる。昨日見て、隣の人が死んだ、とか言えればいいのに。本当に残念なことだ。ただ、「信じていないから怖くないのだろう」と言われた時に、必ずする話が一つある。

 

以前、私が鵜の木というところに住んでいた時の話だ。木造で、漆喰の壁といったオールドスタイルのアパートだった。玄関を入ると左に向かって廊下があって、その廊下の突き当たりに台所がある。廊下の右側に、横開きの扉が二つあって、それぞれ部屋であった。

 

私は右の部屋を使っていて、生活はそこで全て出来たので、左の部屋は物置になっていた。以前大学の後輩にもらった、自分で作らなければならないウクレレキットが、そのまま部屋の真ん中に放置されて一年場所を変えていない。そんな環境である。他に、衣装箪笥やら未開封のダンボール箱があったか。



住んで数ヶ月した時だろうか。ある日、ふと腑に落ちることがあった。



「そうか、これは誰かいるな」



 木造建築は別に地震がなくとも、何かが軋む音がしたりするのは自然なのだが、どうもそれだけではないと分かったのである。ささいなことではない、隣の扉が開いて閉まったのだ。

 

それまでは気にもしていなかったのだが、おそらく深層で違和感を感じていたのだろう。それでピッタリして、いきなりそう思った。そう思えばそれからはハッキリして、隣の部屋に動く気配があったり、扉が開いて廊下を通ったりしていた。

 

当然なのか、不思議なのかは分からないけれど、私はそれに対して全然違和感を感じなかった。「いる」と分かれば、そのようにやっていけばよいわけで、向こうが外に出た時には私は部屋いればいいし、いない時には私は普通に生活すればよいだけの話である。

 

ただ、なるべく扉は閉めるようにしていた。それが嗜みのように思えたし、「向こう」もわきまえた方だったので、お互いの領域を犯すようなことは一度も無かった。お隣同士の、節度あるお付き合いだったわけである。二年ほど住んで私は引っ越して、今その部屋と「その方」がどうなっているかは知らない。

 

私は「見えない方」の人間なのだが、「そういったものがある」と考える人間である理由の一つは、こういったことがあったからだ。これは、私が暗闇や幽霊といったものがあまり怖くないという理由とは本当は関係ないのだけれど、まぁこの話を一つすれば済むから、大体これで済ませている。