なんのため

引越しのダンボールを開けていると、卒業証書が出てきた。四本くらい、筒に入った状態のものだ。まぁ、いらないかと思ってゴミ袋に入れたのだが、一片づけした後になんとなく気になって、また袋から取り出してテレビ下の箱に投げ込んだ。ふむ。

一度捨てようとしたものをやっぱりと戻したのは、やはり違和感を感じたからなのだが、今でも卒業証書なんぞは捨てていいと頭では思っている。「自分がノーベル賞を取ったり、殺人鬼として有名になったりしたら、100万くらいで売れるかな」という風に、頭では理屈をつけたのだけれど。

そもそも、「特別なこと、特別な日」というのが好きではなく、正直なところ年末・年始も嫌いだ。「ただ、1月1日だから」という理由で、木曜日に郵便局が休みなのも気に食わないし、新聞が分厚い理由も良く分からない。ヤンジャンやモーニングも出ないし、やよい軒もやっていない。

年賀状を出すくらいなら、普段から挨拶くらいしておけよと思うし、おせちってそんなにおいしいものじゃないし、普段閑散とした神社に行列が出来るなんて正気とは思えない。寒い中並んで金払うとか、なんの拷問なんだ。まぁ、こういったことは全てこちらの都合なのだが。

普段からこういうことばかり考えているのだけれど、この前人と話していて「あぁこれか」と思うことがあって。例によって普段の調子で、「卒業証書を捨てようと思ったのだけれどなんとなく戻した。有名になったら売れるかもしれないし」と話していると、「まぁ売るのは無理だ」とマジレス。

乙、と思ったのだがその話は、「そういうものは、自分にとってはわりとどうでもよくて、人にとってはなんか大事だったりする」と続いた。これには、「おっ」と思わされた。どういう話かというと。その人の実家の物置を整理している時に、おじいさんの絵が出てきたと。その方は絵の上手な方だった。

そのおじいさんは、「もうこれはいいか」と捨てようとしたのだけれど、その人は慌ててそれを止めてもらって帰ってきた、そうな。この話は何か分かるような気がした。自分にとって、「自分のモノ」というのはさほど価値を持たないのだろう。作家が自分の署名をありがたがるはずもないように。

ただ、「周りの人」にとってどうかと言えば、それはその本人が感じたり、考えたりしていることと、ずれている場合もあるよ、ということなのだろう。確かに他人の考えていることは良く分からない。いや、「人の価値観にはいろいろある」、と書くべきなのだろう。

新年を迎えるにあたって、渋谷のTSUTAYAの前でぎゅうぎゅうになっている人たちが数字を数えている映像を見た。私は最近、ああいう熱気というものを否定してはいけないような気がしている。そういうものが、経済的にも、文化的にも、歴史というか全体というかを、前に進めているんだろと思うからだ。

一方で、今朝センター街を歩いていると、足元に瓶が粉々になっていたり、ゴミが散乱していたりしていて、それをやってしまう人に気持ちが私にはどうしても分からない。酔って、ホームで寝てしまう人の気持ちも。仕方なくそうなるんだろうとは想像できるのだが、どうして仕方なくなってしまうのか。

初詣に繰り出して10万人の中の一人になるくらいなら、八丈島でゆっくり温泉に入っている方が正しいよな、と思ってしまう。まぁ、私はその二つのどちらもやらないわけで、これは頭の中の繰言ということになるのだけれど。
どちらもやらないし、どちらもやれない。

だが、想像することはできて。沢山の人ごみの中で、何かを待つ自分。誰かと一緒に、どこかを目指す瞬間。「なんか分からないけど、おっしゃー!」みたいな気分や、「バカみたいだけど、やっぱりこういうことはやっておかないと気持ちが悪いからね」というようなこと。

こういうものは皆、私は「自分のため」には決してできない。これはもう、生まれと育ちのせいなのだ。これはできない。
けれど、自分じゃない誰かのためにだったら出来るな、と思う。あけましておめでとうと言うことも、並んで神社の賽銭箱の前で手を合わせることも。

大にしろ、小にしろ、皆そうなのだろう。「なぜ、おめでたいのか」と考えれば自明のことなのだ。
なるほど、新年ともあって新聞同様この文も分厚くなった。そういうものなのか。