希望について

昔は、いや昔ではない、今もか。ありとあらゆる人間が幸せになれば良いと思っていた。いや、思っている、か。
もしそうなれば、ありとあらゆる幸せな人たちが、世界でたった一人不幸せな私に、その幸福を少しづつ分けてくれるのではないか、という仮説である。

幸福な人は、きっと寛容で同情的であろう。
ただ、「幸せ」というのはやはり私以外の人にとっても見つけづらいものらしく、私の周りにはそれを分けてくれそうな雰囲気を持つ人はいない。そこで私は、「幸せな人たちは一か所にまとまって、それを外に出さないようにしている」という仮説も立てている。ずるい。

40年かけて探して結局見つからなかったから、私は幸せについては「見つかりづらい」としか書くことはできない。だから、私が書くことが出来るのは、希望についてだ。こう書くとなんだか大仰に聞こえるが、申し訳ないが、それほど大層なことではない。

おおよそ間違いだらけの人生ではあっても、これだけは間違いないということが少しだけある。夜寝たら、次の日に必ず目が覚める。それはその内の一つだ。
夜眠って、目覚めなかったことはないから、そのことを頼りに、「明日はなにしようか」と考えることが出来る。

「また明日やろう」でもいい。夜眠り、朝目覚めて次の日に前の日の続きが始まる。頼りなく細い生活の中でも、それだけは確かだ。
毎日常に同じで、そして毎日少しづつ違う。そして、その中にずっとい続けることができる。私にとっての「希望」とはそういう形をしている。