賽は投げられた

もし、ユリウス・カエサルが今この時、この時代に生まれていたならば、彼はユリウス・カエサルたりえたのだろうか。例え、同じ能力を持っていたとしても。
例えば英雄が、その才能を持って、その才能を生かす時を持たなければ、カエサルですらカエサルの名を残さなかったのではないか。

そう考えるのは、もちろん当然のことなのではあるが、しかしである。ユリウス・カエサルであるならば、今のこの日本であってさえ、カエサルである所以を示すことは明らかであるような気もする。それがどういう形であるのかは、その本人ではない私には分からないが、そんな気もする。

生まれ落ちた社会や時代が、その才能を英雄に変えるのは確かだろう。ただ、たかだかそんなものが「英雄」を「普通の人間」にまで貶めるものなのだろうか。
人は生まれ持ったものと、その後に身に付けたもので一生を過ごす。カエサルは、どちらをどれだけ持ち、身に付けたのだろうか。

今日、引越し先と契約した。その帰り道、そんなことを考えていた。一体なんなんだろう。もちろん私のことである。