「植草甚一スクラップ・ブック」(世田谷文学館)

もうとっくに終了した展覧会の話で申し訳ないのだが、「植草甚一スクラップ・ブック」(世田谷文学館)に出かけた。植草甚一はもちろん古本屋の「仲間」ではあるのだが、身近すぎて(と言いわけしておく)ミステリ関連を一冊、映画関連を一冊しか読んだことがない。「500円だと良く売れる」人だ。

世田谷文学館の展示はスピーディーで、個人的には好きなのだけれど、この度もそういう印象で見やすかった。「食い足りない」という人がいるとも思うが、これはまぁコインの表と裏みたいなもので、「私は腹八分目でいい」ということだ。勢いで常設展に降りて、八一の「学規」をぼーっと見ていた。

展示を観ながら、一番強く感じたことは、この人の人生にほとんど「迷い」というものが感じられないことだった。学生時代、東宝の社員時代、結婚についても、残された膨大なメモ書きの中に埋もれて、展示だけ見ると「この人はここにある巨大なメモみたいな人だった」ように見える。

そんなわけは無いだろうと思う。人として生れて、苦しんだり、悩んだりしない人間がいるはずもない。ましてや、「メモの魔」という領域に達した人が、それについて何か書き残していないはずは無いような気がするのだが。そういうことは、著作を読めば分かるのだろうか。不勉強を恥じる。

植草甚一の美術に関しては、コラージュについてはある水準に達しているように思う。ただ画面が暗い。書痴であったことが影響しているのだろうかと、ちょっと思った。