言葉と内面

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/president.jp/articles/-/36855
上野千鶴子「人はなぜ不倫をしないのか。私には信じられない」 性的自由を手放すなんて恐ろしい | PRESIDENT Onlie)

いつもながら元記事のタイトルが、「とてもインターネットらしい」読まない人ホイホイで、内容とうまく接続していない点で「あいかわらず」なんだけれども、
それはまぁ別として。
この記事に対するコメントで「規範を内面化」しているという言葉を目にして、思わず関心した。うまいこと言うなぁ。
私の解釈では、ようするに「頭の固いお馬鹿さん」ということなのだが、この言い方ならば巷によくいる「頭の良い人たち」にも届きそうだ。苦い薬を胃袋まで届けるカプセルを彷彿とさせる。ググってみると、心理学の用語らしいのだが、さすがアカデミズムは洗練された言葉を使うもんだ。(英単語ではinternalizationとのこと)

「~が内面化している」という言葉の使い方は、「密接している」という意味で時々使っていたのだが、
例えば「言葉が内面化している」という場合は、その人の内面としゃべっていることに齟齬が極端に少なそう、という感じで、
このたび、少しだけ調べて用語として私の中にも内面化した気がする。

「言葉が内面化している例」として一つあげたい動画。
https://www.youtube.com/watch?v=ZOZah217K1M
(豪の部屋 ゲスト:頓知気さきな 2020年6月2日)
有村架純さんと長澤まさみさんを足して二で割ったようなすごい可愛いらしい女性なのだが、そのことよりも「言葉が内面化しすぎてることがちょっと怖い」と思ってしまった。思考と発声している言葉がものすごくダイレクトな感じが。技術とか訓練とか、そういうものではないなにかを感じる。伝わらなかったらごめん。

最後に、一応礼儀として元の記事についての感想を述べておくと、
上野千鶴子さんのご説ごもっとも以外のことは思いつかない。
まぁ読めば大概な人はそうだと思う。上野さんは、おそらく読者のほとんど多くの人間よりも頭を使う能力に長け、その上このような問題に長く時間を費やしてきている。自分よりも能力に長けた人間が、自分より多くの時間を費やしてきたことに対して、そこに何か付け加えることができると思うほど、私は自分のことを信用していない。
そして一応、この記事がSB新書から出ている『人はなぜ不倫をするのか』からの再編集であることを付け加えておくよ。

「今の若い者」は、「照れ隠し」が分からないというテキストを読む。

ネットですれ違っただけのダボラなのだけれど、

私は「照れ隠しが分からない」というのは最高に若者だし、最高に「今の若い者」だと思うから、この意見が好きだ。

私の周りには若者はいないから、遠慮なく好きになれるし、悠々と支持することができる。もちろん、若者のことを。

最近は、「チリ交列伝」(伊藤昭久 ちくま文庫)、「古本屋おやじ」(中山信如 ちくま文庫)と読み進めていた。理由は単純で、ちくま文庫の「山」を買ってその中に入っていたもので読もうと思ったものを適当につまんだからだ。
(「山」とは古本屋用語で、とにかくたくさんの「本口」が集まった品物だと考えていただければ。「本口」は、20冊から30冊の本を紐で縛ったものを「一本」と呼び、それを積み上げたもの。5本あれば5本口と呼ぶ)
二冊とも古本屋本なのだが、「チリ交列伝」がなぜ古本屋本となるかは説明がいるかもしれない。「チリ交」は「チリ紙交換」の略で、チリ紙交換と古本屋は縁が深い。理由はぼんやりと想像がつくことと思うが、まぁ新聞やダンボールも紙なら、本や雑誌も紙というわけだ。そう言われても分からないようなら、周りの物知りな人に聞いてみよう。
著者の伊藤さんはかつてチリ紙交換の元締めをやっていて、後に出版もやったりしたようだが、最後には古本屋専業となった方だ。背の高いいかり肩で、「かわいい」と「おっかない」のどちらかと言えば、どう見ても「おっかない」寄りの人だった。なぜそんなことを知っているのかと言えば、一緒に五反田や渋谷で即売会をやっていたことがあるからだ。「チリ交出身」という出自もあって、武勇伝のたぐいも聞く人ではあったが、私は特に怖い思いをしたこともなかった。私と顔を合わせるたびに「明日さん、明日さんには明日はあるのかい」と嬉しそうに話しかけてくるのが、なんだかかわいかったという記憶がある。伊藤さんが亡くなってから大分たつ。店の品物の片付けを手伝った記憶があるのだが、あれは何年前のことだったか。

「自分のお金を出して買った本を、自分で読むことが出来るのは古本屋の役得なのだが」と書き出したのだが、そんなの当たり前なことに気が付いた。頭にきた。
おまけに、古本屋が古本屋の本を読むのは、あまりにばかばかしいのではないかといういことに思いいたって、発狂しそうだ。面白くなくはない。いや、面白いのだろう。文庫になるくらいだし。ただ得るものはない。なかった。
とりあえず、後見返に鉛筆で「100」と書いて店頭のワゴンに出した。これは復讐ではない、適価だ。伊藤さん中山さんごめん。売れなかったら、そのなんだ。もっとごめん。

二冊は片付いたので、続いて「出版業界最底辺日記」(塩山芳明 ちくま文庫)を読み始める。副題は「エロ漫画編集者『嫌われ者の記』」。編集者のまえがきに、これを書いた人は「エロ漫画下請け編集者」であるとあって、エロ漫画雑誌にも下請けというのがあることを始めて知る。
読み始めると、漫画とは随分と長い付き合いなはずなのだが、出てくる作家さんの名前が全くわからない。「あだちケン」「真弓大介」「くらむぼん」「阿宮美亜」…… いやぁ、すいません不勉強です。時代は「宮崎勤事件」後。いわゆる「エロ漫画」が、「有害図書指定」によって本屋の隅に追いやられ、コンビニから追放され、という時期。そんなタイミングの「エロ漫画下請編集者」の日記という体裁なのだが、なんともまぁ大変に面白い。登場人物は全く分からないのだが、文章の全てが生き生きとしていて、間違いなく書かれた時代を照らしている感じがする。こういうのが読みたかったんだよなぁと思う。いつだって、こういうのが読みたいのだ。先が楽しみだ。

田中小実昌の『コミマサ・シネマ・ツアー』を読んでいて、本質的にこの人の方が、色川武大より上だなと直感。

という一文が出てきて、思わず「ほう」と声が出る。

1990年11月×日
コラムを連載予定の現役女子高生、菜摘ひかる女史が下描きを持って来社。

菜摘ひかる! 女子高生! 「自らの人生を赤裸々に語る女流」というジャンルがあるかどうかはともかく、そういう感じのものにあまり興味が持てないでいたのだが、なぜか菜摘ひかる卯月妙子が好きだったことを思い出した。

何とあの恐怖の都条例が~にきちまったのだと。単行本が指定されたのは前代未聞。しかも、3か月も前に出た物だ。雑誌同様の基準だとすれば、単行本も“18歳未満の方々には販売出来ません”という、腰巻きを付けねばならなくなるが……。

これを読むと、エロ漫画には「都の条例」による規制があったこと、雑誌には「18歳未満販売禁止」の腰巻が巻いてあったこと、になる。テキストは1991年のもの。およそ30年前のことなのだが、高校生の自分。全く記憶にない。

渋谷駅、山手線を降りたところに「5Gってドラえもん?」というソフトバンクのポスターが張ってあった。「違うんじゃないかな」と思う。

令和の古本屋(ほ)ほめろやほめろ

月曜日、下北沢のお店は定休日なのだが、もちろん市場はお休みではない。月曜日は「中央市」という名前の市場があって、主に一般書を扱う会である。一般的に「本」と言ってイメージされるものは、大体ある感じだ。当店の月曜日定休は、この中央市に合わせて決まったもので、「月曜日は市場に行く日」ということに決めて、なるべくなら品物を買いに行くことにしている。

私は今は関わってはいないのだが、この市会の「経営員」だったことがあり、いわば、というか実際にOBだ。緊急事態宣言後、初めての市会ということもあるのか、昨日は出品量がとても多かった。中央市は、本部会館の3フロア―を使って開催されることが多いのだが、今回は地下のフロアーも解放してまるまる1フロアー増えていた。
理由は端折るが、市場の荷物の片づけは量が1.5倍になると、その手間は2倍どころでは済まなくなる。そこで起こるであろう苦労があまりにも容易く想像できたので、昨日はお手伝いをさせてもらうことにした。
古本屋の仕事は力仕事だ。本は一冊ずつ市場に並ぶわけではなく、おおよそ20~25冊程度で縛って、これを「1本」と呼ぶ。つまり、100冊なら4本か5本に縛って積み上げて並べ、これを「1点」と呼び、1点単位で買った売ったを行う。
買われた荷物は、最終的には「名寄せ」される。複数「点」品物を買った人がいれば、その人の荷物をまとめるという作業だ。これが意外と大変な作業で、例えば5本口の荷物を名寄せするために移動しようとすれば、一本はおおよそ12~15㎏くらいあるから、延べ60㎏の荷物を移動することになる。
移動は台車で行うとしても、荷物の上げ下げだけでも結構な運動となる。ようするに、疲れる。

普段は19時頃には終わっている作業が、昨日は20時半くらいまでかかった。朝は10時から始まっているはずだから、経営員の人たちは10時間以上働いていることになる。なんとも気の毒だが、その分ビールはおいしかろう。。
私個人としては、休みあがりの割にはなんとなく動けていたし、キャリアが生きていた感じがして鼻高々だった。誰もほめてくれないけど。翌日に筋肉痛が出ることもなく、1カ月半かけて体を整備したことが生きたのかもしれない。もしくは、40を過ぎると筋肉痛が出るのは明日なのかもしれない。
そういえば、昨日色々な本屋をリサーチしたのだが、一カ月以上の間自粛と称して何もしていなかった人は誰もいないらしい、ということが判明した。古本屋のくせに、みんなマジメなんだなあと関心する一方、自分はなんだか色々と向いてないなぁと思った。

令和の古本屋(に)日曜日のるらら

金、土、日と、店を再開して三日目。やはり、20時に店を閉めて家に帰ると疲労を感じてバタリと寝てしまう。まぁ、まるまる一か月半家にいて何もしていなかったわけだから、仕事量ゼロと比べれば当然の話で、なにが「やはり」なのかと思わないでもない。しかし、つくづく思うのだが、仕事って体に悪くないか。やらないにこしたことは無いような気がするのだが。

そんな店主の気持ちはもちろん知らないだろうけれど、金曜日と土曜日はほどほどに。そして、今日日曜日はたくさんのお客さんに来店いただけた。多いと言っても、もちろん「うちの店にとっては」という但し書きは付くわけだが、それでも「まぁ誰も来ないんだろうなぁ」という心配は、とりあえずは杞憂に終わったわけだ。本当に感謝しかない。
いつもいらっしゃっていただける方は、この三日間で大体お見掛けしたような気がする。何人かまだ言葉を交わしていない方がいて、それは少し心配ではあるものの、平日になれば人混みを避けてひょっこりと顔を出していただけるものと思う。
そして、もちろんいつもと違う顔ぶれの方もたくさんいらっしゃった。また機会があれば、立ち寄ってもらえれば幸いだ。

そんな風にご来店いただいて、とても申し訳ない気持ちになったことがあって。
うちの店は、入り口前のたたきにワゴンを出して、そこに均一の本を出しているのだが、そこの本が緊急事態宣言の時のままだった。均一というのは、私の考えるところでは、古本屋の足腰といってもよい部分で、とにかくよく使わなければ、結局のところ全体が衰えていくものと考えている。もちろんこれは私の思い込みなのだが、まぁ店の一番最初に目に入る顔でもあるし、ここに好みのものがあればお客さんは嬉しいに決まっているし、お客さんが嬉しければ私も嬉しいのだから、ここはちゃんと準備をするべきなのだ。が、まぁ市場も開催されていなかったし、仕入もできなかったという言い訳はあるし、申し訳程度には本を入れたのだが、荒れた棚を見て残念な思いをさせてしまったとすれば、謝るほかない。ごめんね。
それでもなんとか本を見つけて買っていただいたお客さんもいて、そういう時にはなんというか、頭が下がる思いだ。本を好きでいてくれて、ありがとうと、腹の底から思う。
仕事は体に悪いと思うのだが、こういうことがあると、明日からもがんばろうかな、という気になって、これを書いている。起きたら忘れているかもしれないけれど、嬉しい気持ちは残っているだろうから、今日はよく眠れるんじゃないだろうか。

令和の古本屋(は)

晴れて、下北沢のお店が営業再開の運びとなった。
ただ、考えてみれば、自分で勝手に休んで自分で勝手に再開するだけの話で、特に晴れがましいわけでもない気もする。
ならばどんな言葉がふさわしいのか、ということにもなるのだが、結婚式となればなにはともあれ「おめでとうと言うより他ない」というのと同じで、このたびの営業再開については、やはり「晴れて」というのが大人な態度というものなのだろう。まあ天気も良かったし。

昨日の資料会では少し本も買えたので、篠崎運送の阿部さんがお店まで買った本を配達に来てくれた。最近はどうしていたんですかぁ、と尋ねたら運送業の方も暇で、「一週間に一日しか仕事ない日もあったよ」と言ってガハハと笑っている。なにが面白いんだか分からないのだが、私もつられてガハハと笑った。それに私は、一カ月半まるごと無職だったので、阿部さんを笑える立場ではない。急に働き始めて、怪我とか病気とかしないようにしましょうね、とお互い声を掛け合って別れた。分かれた後、日常が少しだけ返ってきたような気がしたのだけれど、特に感慨深いわけでもないな。

令和の古本屋(ろ)

従来であれば、神保町のいわゆる本部会館では、毎日異なる市場が開催されることになっている。ただ、現状は「従来」ではないので、「二週間かけて一週間分の市会」を開催することとなった。なので、本来であれば今日は「資料会」が開催される曜日であるのだが、一日飛ばして資料会は明日の開催となっている。
市場がやっていれば、まだ店も開いていないことだし、資料会でものぞこうかと思っていたのだが、まぁやっていないものは仕方がない。そこで、今日は倉庫の片付けに出かけることにした。私は6坪ほどの倉庫を借りているのだが、そこには二ヶ月前の即売会の売れ残りがそのまま積んである。売れ残りであるから、私の足も自然と遠のいて、東京都のステップ0期間は家賃を払う時以外は思い出しもしなかった。まぁ、目を背けていたと言った方が正確かもしれない。ただ、そこが一杯のままでは新しい本も入れられない。売れ残りを次の即売会に持っていったところで売れないことは、骨身に染みて、いわば極めて体験的に、耐えがたいほどの痛みを伴って、分かっている。そこを片付けるということは、「古本屋仕事を再開する」という点に関しては、真っ先に手を付けるべき正しい選択なのである。

ただ、その正しい選択にも難点があって、それが何かといえば、なんにせよ「売れ残った本の片付け」というのはつまらないのだ。面白いもので、最初は「これは良さそうな本だな!」と思った本でも、それを商品として値段をつけて、お客さんの目の前に出してみて、これが売れないとなると、その本はなんだかどんどん「良くないもの」と見えてくるのだ。別に内容が変わっているわけでもないのに。次に、値段が高すぎたのかと反省して値下げをしてみたりもする。これはもう行為の内容通り、その本を「良くないもの」に変えていると言っていい。それでも売れないとしよう。となれば、その本に対する思いは最初に持った情熱から、ほとんど憎しみに近いもの変化する。それが憎しみになってしまえば、一緒にいられないのは夫婦と同じで、せめてお金だけのつながりでも残せればともかく、売れ残りの本と売れない古本屋では、最後はお互い罵りあう以外に道はない。
なんだか話が逸れたような気がするのだが、ようするに売れ残りの片付けはあまり楽しい仕事ではない、ということだ。今日も1時くらいから手を付け始めたのだが、2時間やって飽きて、3時間終わったところで地面に寝た。その後は久しぶりに読書をすることにして思った。やっぱり本は、売るより読む方が楽しいに決まっている。