令和の古本屋(ろ)

従来であれば、神保町のいわゆる本部会館では、毎日異なる市場が開催されることになっている。ただ、現状は「従来」ではないので、「二週間かけて一週間分の市会」を開催することとなった。なので、本来であれば今日は「資料会」が開催される曜日であるのだが、一日飛ばして資料会は明日の開催となっている。
市場がやっていれば、まだ店も開いていないことだし、資料会でものぞこうかと思っていたのだが、まぁやっていないものは仕方がない。そこで、今日は倉庫の片付けに出かけることにした。私は6坪ほどの倉庫を借りているのだが、そこには二ヶ月前の即売会の売れ残りがそのまま積んである。売れ残りであるから、私の足も自然と遠のいて、東京都のステップ0期間は家賃を払う時以外は思い出しもしなかった。まぁ、目を背けていたと言った方が正確かもしれない。ただ、そこが一杯のままでは新しい本も入れられない。売れ残りを次の即売会に持っていったところで売れないことは、骨身に染みて、いわば極めて体験的に、耐えがたいほどの痛みを伴って、分かっている。そこを片付けるということは、「古本屋仕事を再開する」という点に関しては、真っ先に手を付けるべき正しい選択なのである。

ただ、その正しい選択にも難点があって、それが何かといえば、なんにせよ「売れ残った本の片付け」というのはつまらないのだ。面白いもので、最初は「これは良さそうな本だな!」と思った本でも、それを商品として値段をつけて、お客さんの目の前に出してみて、これが売れないとなると、その本はなんだかどんどん「良くないもの」と見えてくるのだ。別に内容が変わっているわけでもないのに。次に、値段が高すぎたのかと反省して値下げをしてみたりもする。これはもう行為の内容通り、その本を「良くないもの」に変えていると言っていい。それでも売れないとしよう。となれば、その本に対する思いは最初に持った情熱から、ほとんど憎しみに近いもの変化する。それが憎しみになってしまえば、一緒にいられないのは夫婦と同じで、せめてお金だけのつながりでも残せればともかく、売れ残りの本と売れない古本屋では、最後はお互い罵りあう以外に道はない。
なんだか話が逸れたような気がするのだが、ようするに売れ残りの片付けはあまり楽しい仕事ではない、ということだ。今日も1時くらいから手を付け始めたのだが、2時間やって飽きて、3時間終わったところで地面に寝た。その後は久しぶりに読書をすることにして思った。やっぱり本は、売るより読む方が楽しいに決まっている。

令和の古本屋(い)

久しぶりに、神保町に出かけた。
今日から市会が再開となり、アフターコロナの古本市場が始まった。
今日の開催は「古典会」と「洋書会」で、「古典会」は主として古典籍、「洋書会」はその名の通り「洋書」を扱う市会だ。階の上下で、江戸時代の和装本と、日本の洋装本とはやはりどこか印象が違う「洋書」という、全く性格の異なるものが「本」というくくりで同日に開催されているのは、いつ見てもおかしなものだなと感心している。

話は変わるが、会館の入り口には受付が出来ていて、そこには手指消毒用のアルコールと無接点の体温計が置いてあり、その横に置かれた箱に、来会者は自分の屋号と名前を紙に書いて入れろと指示があった。おそらく、感染者が「出てしまった」際に、クラスタとして提出するための準備だろう。まぁそのなんだ、大過なく過ぎればよいなと思う。
市会は曜日によって開催する日が決まっているのだが、火曜日は普段は利用しない日だ。突然なんの言い訳を始めたのかと言えば、今日はなんにも買えなかったので、私の再開初日は棒に振られたということになる。

令和の古本屋(再開)

6月に入り、東京都の休業要請などの緩和が「ステップ2」となって、それと同じくして明日から、東京古書籍商業協同組合の市会も再開する運びとなった。ひとまず、めでたい。
私は下北沢で古本屋を営んでいるのだが、市場の再開を見てから、6月6日の土曜日に営業を再開しようかと考えている。日付に特に意味はなく、なんとなくギリギリまで再開したくないような気持が滲み出ているような気がしないでもない。

自粛なんだか、謹慎なんだか、分からないような不思議な時間を一ヶ月以上過ごしてきてのだが、特になんの感慨もない。図らずも、人工呼吸器のお世話にならずに済んだのは僥倖だったのだが、その幸運に最初こそ感謝したものの、しばらくすれば感謝にも飽きて、やがて慣れた、忘れた。出かける時に、忘れずマスクをするのもやがて慣れた。手洗いうがいも、やってみれば案外良いものだった。健康は万能で、仕事をするのはかなり不健康な行為だと、自粛して数日後に気が付いたのだが、そのことももうかなり忘れつつある。ところで、マスクをしなくて済む日というのが来るものなのだろうか。
死ぬほどyoutubeを見て、zoomもやった。zoomで話すのは、思っていた5倍くらい面白かった。自分が画面の中の登場人物になるというのが、まずおかしい。電話で通話するのとは、全く別のものであるというのがよく分かった。ただ今は面白いけれど、やがて慣れてくれば、結局面白い人が画面の向こうにいれば面白いし、つまらない人間が画面の向こうにいればつまらない、という当たり前で残酷なところに落ち着くのだろう。電話だろうがインターネットだろうが、結局そこのところは変わらない。難儀なことだ。

5月末から、急に6月のスケジュールが埋まり始めた。
「あぁ自分にも予定があるんだ」と間の抜けた感想を持った。いや、一ヶ月以上定休日しかなかったのだ。本当に。
例えば店を開けたとして、果たしてお客さんが来るものなのだろうか。そしてお客さんが来たとして、開き続けていけるほど本が売れるものなのだろうか。実は試されるのはこれからで、もう死んでいるのに一か月間それに気が付いていないだけだった、ということだってありえることだと思う。
さて、そろそろ腰をあげなければならない。
端的に言えば、本を買って、本を売るのだ。力を尽くそう。職業人として。

なんで、「フィクション」じゃなくて「リアリティショー」じゃなくちゃいけないのか、と思うわけなんだけれど、やっぱり「単純に勝てない」んだろうなぁ。

俺もポテトチップの、のり塩味食べ始めると全部食べちゃうしな。気持ち悪くなるけど。

思う

古本屋になったのはおおよそ15年くらい前の話となる。
部屋と本しか無かったので、インターネットで本を売ることにした。最初の月の売上は15万円だった。よく売れるもんだなと思った。
なんの本が売れたのか、とか、いくらの本が売れたのか、ということは一つも覚えていない。どういう人が注文をくれたのか、ということも覚えていない。お勤めしていた古本屋で、同じことをやっていた、ということもあるかもしれないが、ようするに興味がなかったのだと思う。
ただ、当時も今もずっと思っていることがあって、それは15年たってお店を開けてからも変わらず思っているのだが、それは「ある日突然一冊も本が売れない日が来るかもしれない」という確信に近い思いだ。
理屈もある。読書人口は減り、おまけに本は大量生産物の上に生活必需品でもない。内容はどれを手にとっても同じだから、わざわざ「私」から買う必要もない。だから、私がこの仕事で15年もの間いくばくかの稼ぎがあるというのは、本というもののもつ底力と、まごうことなきただの偶然である。

「自粛の春」が終わって「コロナの夏」が開ける。
私は店を開けたとて、一人もお客さんが来ないのではないかと思っている。何人か人が店に来たとしても、一冊の均一も売れないのではないかと思っている。もう「古本屋」は人に必要とされていないかもしれないと思っているし、「本」はインターネットで買えばよいのではないかと、お客さんたちは考えているかもしれないと思っている。そうだとしても、なんの驚きもないし、15年も前から思っていた未来にようやくたどり着いたのだと納得するだろう。
「店を再開したら、お客さん来るかな?」と何人かの同業者に尋ねた。そうするとみな口を揃えたかのように「大丈夫なんじゃない?」という。不思議と確信しているかのような口ぶりである。
頼もしいな、と思う一方で、この人たちバカなのかな、とも思う。