「風立ちぬ」

風が立つ、生きようと試みなければならない。

今、テレビの画面で「風立ちぬ」が流れている。
私はスタジオジブリが好きな人間、というよりは宮崎駿の映画に寄り添う者の一人だ。今、音を消してその画面を時折じっと眺めている。


いつから好きになった、とか、どうして好きなのか、とか、そういう話は大体みんなと一緒だ。小さい時にナウシカを観て、ラピュタを観て、トトロは劇場に観に行かずに後でビデオで見た。「となりのトトロ」を劇場で観なかったのは、私の生涯の後悔の一つだ。

みんなと一緒だから、とりたててここに書くようなことはないのだけれど、CMの間にこれを書いている。
CMが終わると、全く、なんのCMでもないものが流れ始める。音を消していると分かる。「風立ちぬ」は何の宣伝でもない。美しい絵と、美しい絵の動きだ。

劇場で観ている時からそうだったのだが、「風立ちぬ」を観ている間、私はずっと泣いていた。別に涙がこぼれ落ちるわけではないのだけれど、何だか泣いている。胸がいっぱいになる。画面と相対し、目と耳から入ってくるもので、何かがいっぱいになるんだろうと思う。

愉快なシーンでも、なんでもないシーンでも、もちろん感動的なシーンでも、劇場内が明るくなるまでずっとそんな調子だったから、ストーリーに感動しているわけではないのだと思う。ならば、何が一杯になっているのだろうか。画面と、その向こう側に積みあがっている何かになんだろうか。

宮崎駿という人は、もちろんこの映画を一人で作ったわけではない。しかし、この映画を代表する名前はもちろん彼一人で、それは世界の中でも最も大きいものの一つを背負う者の名前でもある。そして、確かに私はこの映画を「一人の人間が作ったのだろう」と思って観てしまっている。

人一人が持てるものは、あまりにも少ない。積みあげた技術や経験、考え方や思考そのもの。それはおそらく、頭の中の知識だけをとってもそうだろう。そして、与えられた時間は限られていて、あまりにも少ない。衰えは常にそばにあって、逃れがたい。

それは、もし宮崎駿という人が(知らないけれど)例え天才であっても、そうであることは間違いないと思う。そして、そのなにもかもが限られた中でこれを作ったであろうという風に、私にはずっと見えていた。そしてそのことに私は共感を覚える、というよりは、寄り添いたいと願ってしまうのだろう。