古本屋ジョーク

ある日、古本屋になってから、本というものは「読むもの」から「売るものに変わった」。当たり前のことなのだが、この違いは大きいもので、そのせいか知らないけれど、本を読まなくなった。

例えば、本屋に行って本を買えば、それはまず「読むために」買うというのが相場というものだろう。客と店を分けるのはその辺で、「店」は本を買いも売りもするけれど、読みはしない。「客」は買って読む。その買って読む人たちが、残念ながら減ってきている。

その残りの人たちも、だんだんと眼が悪くなってきている。悪い目で活字を読む億劫さは、経験したものでなければ分からない類のもので、「これはもう読まなくても良い」と思うまであとわずかなところのものだ。まもなく、私のお客さんたちは本を読まなくなるだろう。(買ってはくれるかもしれない)

振り返り、若者たちを見れば活字離れが叫ばれて久しい。まぁ、「活字」なんて今ではどこでも使われていないのだから、離れて当然という気もするが、活字で刷られた本はまだ容易に入手可能だからそこから離れたのかもしれない。これは古本屋ジョークだ。つまらなくてすまない。

中年の私が読まないくらいだから、若者ならもっと読まないだろう。それでも、まだ日本人が「本」という存在に違和感を感じないで済んでいるのは、若かりしころ「教科書」というものを与えられているからなのではないか、と私は睨んでいる。さして読まないけれど、座右に置くものとしての本だ。

まだ、若者たちは渋々ではあるが、本を自らの横に置いておくことを許している。「渋々」だから習慣なのだが、生活と習慣の中に文化は全てある。
やがてこれがタブレットに変わった時、おそらく日本から「本」というものの文化は滅びるのだと思うのだが、そこまで後何年なのだろう。