2012年11月20日のfacebookより

新ネタを書くのが面倒なので、転載。7年前か。わざと濡れて書いている感じが、あまり好きじゃない。まぁ、当時の知り合いに見せる用にわかりやすくやってるのかもしれない。映画は素晴らしい。

 

 

ミシェル・ペトルチアーニMichel Petrucciani, 1962年12月28日 - 1999年1月6日)は、フランス出身のジャズ・ピアニスト。先天性疾患による障害を克服し、フランス最高のジャズ・ピアニストと評価されるほどの成功を収めた。』

そもそも芸術音痴の私が、ジャズに詳しいはずもなく、ペトルチアーニさん(以後呼び捨てで失礼)についても全く知識もなく。そんな私が、お洒落爆心地イメージフォーラムにのこのこと足を運んできました。「情熱のピアニズム」。

映画はドキュメンタリーで、ベトルチアーニ本人のインタビュー・演奏、そして関係者に対するインタビューで構成されています。ジャズについて、演奏することについて、生活について。友人・元奥様・恋人・同業者の言葉。

そこに浮かび上がるのは、芸術家の諧謔と残酷。映画内で、「まるで楽器の一部みたいな」と同業者の一人が言うとおり、身長が100センチしかないベトルチアーニ。演奏する姿は、まさに楽器と一体化しているかのようですが、

その小さな体で恐ろしくユーモラスに話してみせます。時には、笑えないほどの過剰さ。そして彼と深く関わった恋人たちの言葉が、芸術家と呼ばれる人たちの、極めて難しい、なんというか難しいとより言う他ない、その感じを外側からなぞります。

演奏シーンはもちろん素晴らしく、素養のない私がとやかくいうスペースはありません。(大体、「フランス最高」と呼ばれるピアニストに、私が何を言えるというんだ) ただ一つとても印象的なシーンがあって、そこについては話したく。

ベトルチアーニが、かなり長い間右手だけでピアノを弾くシーン。光を落としたステージ。手、とても大きな手。延々と繰り返されるフレーズ。ピアノは誰が鳴らしても同じ音がする楽器ですが、そこで鳴っている片手で引かれている単純な音は、

確かにいつも耳にする音とは次元の違ったものに聞こえました。よく、「他の人とは音が違う」という漫画的な表現がありますけど、それが実際に自分の身に起こるとは思ってもみませんでした。(まぁ、気のせいなのかもしれないね)

マイケル・ラドフォード監督の編集は、ちょっと食いが浅い気もしますが、とても丁寧な印象でした。そして、私はこの映画を観ている間、ずっと涙をこらえているような感じでいました。

ベトルチアーニは、体中の骨が折れた状態で産まれたそうです。「骨形成不全症」というのが彼の抱えた大きな業だったのですが、その病気に生涯にわたって苛まれました。

それでもスクリーンの中で、ベトルチアーニは「自分は自分以外の何者にもなりたいと思わない!」と大見得を切ってみせます。巨大な音楽的な才能。押し寄せる名声と、経済的な成功。そして、音楽家としての純粋な喜び。

そばにいたあらゆる人間が、「全力で生きた」と認めるベトルチアーニの人生は、おおよそ37年間でした。普通の人間の人生を何十個も詰め込んだ一生であったことは明白で、その死を「早すぎる」とは私は全く思いませんでした。

それでも、私はなぜか泣きそうでした。正直なことを言えば、同情していたのです。それも最初から最後まで。世界的な名声を手にするピアニスト相手に、私ごときが同情など片腹痛いわけですが、それでもやはり。

「苛酷に生きること」と、「苛酷にしか生きられない」ことは違う、とか。時間さえあれば産まれていたはずの音楽を惜しむ、とか。平凡でも健康こそが幸せ、とか。書きようは色々ありそうですが、そういったものとも違う。

「おつかれさま」はわりと近いのだけれど、やはりそれだけでは言いつくせない。痛みをこらえ続けていたであろう人に対する敬意、のようなものか。そして、今思いなおしてみれば、この感情はこの映画を作った監督の感情なのではないかと、思っているところです。

そして、トレーナーに綿パンで行ったんだけど、「お前はダセーから入場禁止だ」とは言われなかったぜ。イメージフォーラム