令和の古本屋(休)

緊急事態宣言が出て、今週末+一週間の閉店を決めた。
貼り紙も作って大いに楽しんだ。仕事をするのは楽しい。
ただ、この楽しみともしばらくお別れだ。

今回のコロナウィルスの件が難しいのは、震災と異なって、目に見えて壊れているところがないという点が大きいと思う。
壁が壊れて穴が開いているとか、柱が倒れて天井が落ちそうとか。そこさえ直せば、とかいっそ取り壊して新しいのにしよう、という明快な判断ができない。相手は色も見えない、匂いもしないウィルスだから、いると思えばどこにでもいること幽霊と同じで、ただ幽霊との最大の違いは「現実に」大きな害が出ているというところで、「より害の大きい幽霊」を相手にどう騒いだものか、という「無駄な相談」が多くの人の神経を痛めつけている。

大抵の人間は「明快でないことに対する判断」が大いに苦手で、苦手なことをやらされているから恐ろしいほどの無様を繰り返しているのは、私は仕方がないことだと思っている。安全な時だからこそ、様々な手続きを省略することでなりたっていた「当たり前」は、非常時にはあっという間に当たり前ではなくなる。そこで端折られていたことがあることなど考えたこともない、という人々は当然のように速やかにパニックに突入して、パニックなので自分の聞きたいことしか聞こえなくなる。私はこのことを「豊かさの弊害」だと考えているけれど、「まぁ日本は豊かだからしかたないよね」と言っても、誰もうないずいてはくれないんだろうなぁ、とも思っている。なので、たまにもう少し分かりやすく「少しは大目に見てやれよ」とも言うのだが、それを怒っている人に向かって言っても、油を注ぐだけということも分かっている。そして、私自身がパニックに陥っていないという保証も、全くないと思っている。

いっそ、外に出たら死ぬ、くらいの分かりやすさがあれば、みんな家で寝ているだろうが、まぁそこまでではないらしい。かつての、コレラやペストの流行った世界は、一体どういう風景だったのだろうか。みんな家で泣いていたのか。それとも、案外楽しく暮らしていたのか。
この状況がいつまで続くかなど、コロナウィルス自身も知らないだろう。彼らの空気中での生存期は3時間ていどとのことなので、我々よりは大分短命で、生物の細胞に入っていけなければ増えることもできないし、おそらくそのことに不満を持つ知能もない弱弱しい生き物だ。それにいつまで追い立てられていなければならないのか、まだ専門家でも答えが出ていないようだ。
私は答えがでない問題については考えないことにしているので、本屋(古本屋は自分のことを本屋と呼ぶ)になっていらい、最大の長期休暇をゆっくり楽しむつもりだ。気候が大分よくなってきた。人の少ない道を、光を浴びながら散歩をすることから、一日を始めようと思う。