令和の古本屋(再開)

6月に入り、東京都の休業要請などの緩和が「ステップ2」となって、それと同じくして明日から、東京古書籍商業協同組合の市会も再開する運びとなった。ひとまず、めでたい。
私は下北沢で古本屋を営んでいるのだが、市場の再開を見てから、6月6日の土曜日に営業を再開しようかと考えている。日付に特に意味はなく、なんとなくギリギリまで再開したくないような気持が滲み出ているような気がしないでもない。

自粛なんだか、謹慎なんだか、分からないような不思議な時間を一ヶ月以上過ごしてきてのだが、特になんの感慨もない。図らずも、人工呼吸器のお世話にならずに済んだのは僥倖だったのだが、その幸運に最初こそ感謝したものの、しばらくすれば感謝にも飽きて、やがて慣れた、忘れた。出かける時に、忘れずマスクをするのもやがて慣れた。手洗いうがいも、やってみれば案外良いものだった。健康は万能で、仕事をするのはかなり不健康な行為だと、自粛して数日後に気が付いたのだが、そのことももうかなり忘れつつある。ところで、マスクをしなくて済む日というのが来るものなのだろうか。
死ぬほどyoutubeを見て、zoomもやった。zoomで話すのは、思っていた5倍くらい面白かった。自分が画面の中の登場人物になるというのが、まずおかしい。電話で通話するのとは、全く別のものであるというのがよく分かった。ただ今は面白いけれど、やがて慣れてくれば、結局面白い人が画面の向こうにいれば面白いし、つまらない人間が画面の向こうにいればつまらない、という当たり前で残酷なところに落ち着くのだろう。電話だろうがインターネットだろうが、結局そこのところは変わらない。難儀なことだ。

5月末から、急に6月のスケジュールが埋まり始めた。
「あぁ自分にも予定があるんだ」と間の抜けた感想を持った。いや、一ヶ月以上定休日しかなかったのだ。本当に。
例えば店を開けたとして、果たしてお客さんが来るものなのだろうか。そしてお客さんが来たとして、開き続けていけるほど本が売れるものなのだろうか。実は試されるのはこれからで、もう死んでいるのに一か月間それに気が付いていないだけだった、ということだってありえることだと思う。
さて、そろそろ腰をあげなければならない。
端的に言えば、本を買って、本を売るのだ。力を尽くそう。職業人として。