木から森に

一軒の古本屋を、一本の木にたとえるのを私は気に入っている。
木の根が水と土を抱え込んでいるように、古本屋は新刊本屋から流れ出た本を抱えている。余った水は川に流れ、巡り巡って次の雨となる。余った本も、さまざまな流れを経て、形を変えて次の本となる。

 

水が足りなければ枯れる。本を売ってこその古本屋だから、当然のことだ。枯れた本屋の後で、また次の本屋が生えることもある。
神保町に立ち並ぶ本は、さながら森だ。世界一だと威張っている。本当にそうなのかもしれない。世界一はどうでもいいが、森であることがとても良い。

 

私も古本屋の端くれで、その中の一本の木である。自らが信じるに足る本と、そうでない本を抱え込んで日々を過ごしている。幾層か年輪を重ねて、お世辞にも真っ直ぐに伸びたとは言えない風で、ここまで来た。葉は茂ったか。花は咲いたか。それは分からないけれど、今、いる。

 

木は森にあるのが良いと思う。もし自分の種にとって適切であるならば、やがて落ちた種子が生えて、次の木になるだろう。自分の隣に、別の木があれば良いと思う。木から林に、林から森に。散らした葉の下から、何か別のものが現れるのもっと良いよね。

 

古本屋という木は、今まさに滅びようとしている淵のところにいて、それでも森としてそこにある。数年後か、数十年後かには、きっと無い。
自分で自分のことを、「一本の木になった」と言うのはおこがましいが、そう信じて次の季節を迎えようと思う。木から林に。来年の目標です。