誕生日 意味があるとは 思わぬが

つい先日誕生日を迎えたのだが、まぁそれはいい。
なんでいいのかと言うと、私は誕生日のことを「生まれたことを周りの人間に感謝する日」と定義していて、誕生日だからという理由で他人様からお祝いしてもらうというのは、「自分で自分の稼ぎを作ることもできない子供が、誕生日をダシに何かを買ってもらうという悪しき習慣を引きづっているにすぎない」と断罪している立場だからだ。
しかし、私の理屈を突き詰めていくと、私は誕生日のたびにお世話になっている方々に感謝を述べたり、食事をおごったりしなくてはいけなくて面倒なので、黙っているというわけだ。もちろん心の中では大いに感謝している。なんだ、見えんのか、俺の心の内側が。エスパーか、さとりか、言いたいことなんて言うな。
それでも、中西さんからいただいたケーキはとても美味しかったし、南山さんからもらったゴーフルとおせんべいもとても美味しかったから、誕生日は別として、何かをもらうことは嬉しいことだと思う。いつもありがとうございます。

そんなわけで、7月14日になってしまったが、抱負が実はある。
これからの二年は「どうやって負けていくのか」をきちんと生きて行きたいと思う。
ちょこちょこ書いているから覚えている方もいるかもしれないが、私は古本屋を営んでいる。そして、私がこの仕事を気に入っていることの一つに、この仕事が「いままさに滅びようとしている」点がある。今はもう一体誰が古本を読んでいるのだろう、と思う売上の日も増えて、こういう日は今後どんどん増えていくだろう。ただ、先の誕生日は当店始まって以来の最高の売上で(とはいえあなたの想像よりは低いと思う)、別に誕生日を宣伝しているわけではないので、こういうのは神様の皮肉というやつで、神様とかほんとむかつく。ホストの誕生会か。でもまぁ、売上はありがたい。
私は今まさに滅びようとしている世界で、「決して、滅びない!」とか「まだまだ大丈夫!」とか「俺は死んだ!」とか、つばを飛ばしながら叫んでいる人たちに、心の中で「フェイスガードしろよ」とか思いながら静かにマスクをして座っている古本村の住人なわけだが、アラフィフになった今、若い子(私よりは)に「こうやって負ければいいんだよ」ということを正しく教えてあげられたらいいな、と思っている。勝とうが負けようが、人は生きていかなければならない。そして一度きりの人生だから、それをどう台無しにしようとその人の勝手なんだけれど、私は勝とうが負けようが楽しくやっていかなければならないと考えている人間なので、まぁ負け面をキレイに力を尽くしていきたいと思っている。職業人として。

その第一歩としてまず思いついたのだが、何はともあれ、姿勢を良くしよう。おっさんの猫背は少しみっともないから。