「私」の仕事5

古書は昔高かった。それは魔性のもので、その魔に魅せられて人々は珍しい本を買った。先を争って買った。という話を書いた。
なぜ先を争ったのかといえば、次にいつ出会えるか分からないからである。お客さんはその一瞬の出会いに賭け、自らの想いと時間を買ったのだ。

それは古本屋にとってもそうだった。文学書のチャンピョンと言えばなんだろう。萩原朔太郎の「月に吠える」だろうか。例えば、その感情詩社・白日社版が神保町の市場に出て、落札金額が250万円だったとしよう。もちろん高額で、「あれはいくらで売るんだろう」という話で盛り上がる。

そういう本は、市場に並んでいる段階から特別なものとして分かっているから、皆の好奇の的であった。市場の入札会は、「札」と呼ばれる紙に金額を書いて封筒に入れる方式を取るので、人気のある品物は「札」でパンパンに膨れ上がる。

「いたずらで100万円入れてみて、落札しちゃったら支払いどうしよう」という人も入れる。絶対買えないので安心して良いのだが、かつて人気のある品物というのはそういうものであった。業者が人気モノを金を積んで取り合う姿は、どんな商売でも変わらない。

実際に、業者が争って買うようなものは、売れたのだと思う。売れるからまた買い、お客もそれに応えたのだろう。お客さんも業者も、その目に見えない熱気にあてられて、古本屋は活況を呈した。「本が売れた時代」があるという。私は見たことがないから、仄聞でしかないけれど。

市場の熱気が失われたのが、いつからなのかは私は知らない。
今でも、引く手数多という本が無くは無いけれど、それは昔の引く手数多とは異なっている。まずそこに群がる人の量が違う。高価な品物に、あまり沢山の札が入らなくなった。高価ではあるものの、「買っても困る」からだ。

インターネットに在庫があれば、そこで例え50万の値段が付いてはいても売れ残りである。「50万円の売れ残り」であれば、それ以上の値段は付けられない。次の本が現れれば、40万円、30万円と付け値は下がっていく。同じ本が5冊も6冊もあれば、それは「ちっとも珍しくない」とは以前書いた。

そうやって、古書価は徐々に冷えていく。50万円で売れるのであれば、40万円で買っても良いが、それが20万円になられたらたまらない。だから10万円なら買いましょうという風になれば、業者も人の子、いやになるのである。そして、20万円でいつまでたっても売れないということも実際にあるのである。

それに、以前に50万円で実際に客に売った経緯がある店は、「それが20万円とは一体なんだ」と、客は腹を立てるかもしれない。自分は50万で買ったのだから、せめて半値で買えと言われても困る。損することは分かり切っているからである。時代が変わる、熱が引くとは、そういうことである。

インターネットさえなければ、古本屋の仕事はもう少し状況が良かったのではないかという声をたまに聞く。確かに、本の値段が安くなったのはブックオフとインターネットのおかげ(せい)だが、私はあまりそう思っていない。ネットのおかげで、お客さんは本を買いやすくなった。

インターネットの世界で古本/古書を売る場合には、色々な本屋が本を持ち寄っているというわけではなく、「インターネットという大きな本屋が一つある」という状態になるのが特徴で、その中でお客さんは本を探す。

インターネットの本屋は、基本的に安い方から売れていく仕組みである。ありふれたものはどんどん在庫が増えて安くなっていく。なんなら1円まで下がる。1円でも売れない本というのは、ようするに誰も欲しがっていない本だ。つまり、始めから売れないものを売っているのだろうと私は考えている。

環境が整ったら、売れないことがバレた。という方が、現実に近いのではないかと思う。業者として、それを認めてよいかどうかはともかく。
繰り返しになるが、古本の魔性は去った。狐や狸が人をばかさなくなったようなものだろう。今でも時々ばかすが、極端に数は減ったのだ。

狐や狸は、キツネやタヌキになって、整然と野に帰ったのである。それと同じように、本もインターネットの世界の棚に整然と並べられたのである。熱も去ったのである。我々は鉄火場の博打ちよろしく本をまきあげるのではなく、図書館の司書のようにお客さんに本を届けるようになったのだ。