「私」の仕事4

珍しい本というものがあった(ある)。そういった本は変わらず珍しいままではあるのだが、昔に比べてずっと珍しくなくなった。その理由の一番大きいものは、インターネットの出現である。ということを書いた。「答え」に到達するまでの時間は、昔に比べて劇的に短くなった。

太宰治の「女の決闘」は24万円だそうである。珍しい本であることは間違いない。ただ、その本が24万円で買えるということを知るまでにかかる時間は、ほんの30秒もあれば良い。箱付きの本で、帯が存在することも分かる。jpgで書影(本の装丁やら外見というくらいの意味)すら知ることができる。

内容は文庫で手に入る。インターネットで調べて、手元に届かないのはほとんど「実物のみ」である。調べるだけで、大体分かる。分かった気になるには十分な情報が、簡単に手に入るようになった。舗装された高速道路を行くようなものだ。

先人たちは違ったろう。本当に珍しい本であれば、まず見た目がどのような本かも分からなかったろう。カバーの付いた本なのか、パラフィンのかかった本なのか、箱付の本なのか、帯はどうなのか。ややもすると、「それが実在するのか」も分からなかったろうと思う。

そんな中で、ほとんど幻と思っていた本を、古本屋を介してお客さんが「発見する」。それが古本屋の大きな仕事の一つであったことは書いておいて良い気がする。そういう形で、私の先人たちは日本の文化の一角を支えたのだ。

もちろん、今もインターネットで調べても見当たらない本というものも沢山ある。「本当に貴重なもの」は、そういった「表の場」には現れづらいという部分もある。ただ、その「本当に貴重」の範囲がその登場によって、とてつもなく狭くなったというのは揺るがしがたい事実であろう。

良い/悪いかで言えば、問題なく良いことである。古本というもの一つとっても、大量で正確な情報に触れることが出来るようになったのだから、悪いはずがない。
ただ、曖昧さが去り茫洋とした霧が晴れた結果、古書の持つ「魔性」は消えた。消えたとは言わないまでも薄れた。仕方のない代償である。