「私」の仕事3

「モノとしての本は読まれることを目的としない」、ということを書いた。
三島由紀夫の「假面の告白」の初版本は、カバー帯月報付で38万円だが、これは買って読むための値段ではない。所持し、大事に保管し、共に生きていくために払う価格である。

もし、「本の価値」が文字情報の集合であるということであるならば、それが縦書きであろうと、横書きであろうと関係ないということになる。そういう人用にも、今は安価なものから無料のものまで小説に限らず、文字情報はたくさん用意されている。良い時代になったものだ。

昔の本の裏紙には、反故にされた本が再利用されていて、というような話を書きそうになったが、これはやめよう。
こういった「モノとしての本」の特徴は、高価で稀少だというところにある。「高価である」のが商売上の大きなメリットであることは、言うに及ばないだろう。

その「高価さ」の担保は、「稀少である」ということだ。珍しい、めったなことではお目にかかれない、私も初めて見た。古本屋のみならず古物を扱う人間の典型的な前口上である。お前、それ何度目だ。
もちろん、需要が高い低いというのも大いに関係がある。

近年、「モノとしての本」の価値は劇的に下がった。
理由はもちろん、インターネットの出現と、その中で古本を取り巻く環境が整備されたことにある。三島の「宝石売買」は日本の古本屋に7冊ある。2万円から、上は60万円まで。

ここで確認すべきは、「60万円もするんだ」というところではなく、「7冊もあるんだ」というところにある。7冊しかない、と思えば少ないとも言える。
ただ60万円は高価なものの、「なんならお金さえだせば買えるんだ」ということが分かってしまったことが、古本屋にとっての不幸であった。

人は「最後の一個」に弱い。というか、その最後の一個を手に入れるのか、入れないのか、ということだけが「本当の意味での判断」なのかもしれない。
そして実際のところ、「本」は全然珍しくない(一部を除いて)。悪口ではない。戦後、本は本当に大事にされたのだ。

大事にされ、保存され、やがて読む人がいなくなっても、大事にされるという習慣だけが細々と続き、今ここにきて「これって実は邪魔なんじゃないの?」という段階に入ったのだと思う。戦後70年、ここに来て「本」はついに世間の角に追いやられたのだ。そして、もうリビングには戻れまい。

本の本文はほっといて、カバーと帯に25万円出せるか、というのも面白い話ではあるのだが、こういうのはなんちゃら鑑定団とか、なんちゃらオークションとかをめぐる面白話を探して読んだら良いと思う。私は読まないので、自分で探して、ぜひ聞かせて欲しい。