令和の古本屋3

ご存知の方も多いかと思うが、令和の始まりは十連休で開けた。
「な、なんだってー」と知らないフリをしたい向きもあると思う。私も休みは一日だった。
間一日、店員の中西さんが店に入ってくれた。大変に助かった。
だから、十連休一日も休まなかったものだけが、私に石を投げなさい。
あれ? 案外飛んでくるの? お前の勝手だって? そうだけどさ。

私の周りでは大変に評判の悪かった十連休だが、私は結構楽しかった。
理由はたった一つで、お店にたくさんのお客さんがいらっしゃってくれたことだ。
普段、素っ裸で仕事をしていても、大分気づかれない時間がある当店なわけだが、
連休の最中はさすがにそういう時間は少なかったように思う。

すごい勢いで入ってきて、すごい勢いで出ていくお客さんもいれば、
絶対に全部の本を視界に入れてから帰ると決めて、舐めるように全ての棚を見ているようなお客さんもいる。
顔見知りのお客さんもいれば、もう二度と会わないかもしれない外国人の方もいる。
たくさん買ってくれるお客さんもいれば、本を置いて代わりにお金をもらって帰るお客さんもいる。
総じて楽しい。

だから、私の令和は大分楽しく始まった。
昨日、なんだかとても疲れている自分を突然発見して、金曜日休めなかったらマジで危なかったかも、
と思ったのだが、休めたから大丈夫なのである。
十連休が終わり、今日は普通の火曜日で、連休が明けたので市場に一杯お金を払って、
やることは山積みなんだけれど、もうすぐ閉店だし、店内には私しかいないし、
仕事もしないで、素っ裸でこれを書いている。

令和の古本屋2

店を12:00に開け、20:00に閉めることになっている。
定休日は月曜日ということになっていて、祭日の月曜日は開けることになっている。
なぜ、いちいち「なっている」と書くかというと、店が13:30に開いていたり、
日銭欲しさに月曜日も開店したりしているからだ。

なんで20時閉店にしたのかは思い出せないが、確か少し坂を上ったところにあるクラリスブックスさんという素敵な古本屋さんが、
20時閉店だったから真似をしてみて、試しにやっていたことがいつのまにかそのまんまになった、という経緯だったような気がする。
違うかもしれない。まぁ、どうでもよいことで、今のところ私は20:00閉店を気にいっている。

なにかつまらない会議とか、そういうものに駆り出されて、店を開ける時間が左右されることが結構あって、
私はそのことに並々ならぬ恨みを持っているのだが、まぁそのことは横に置いておこう。
一方で、閉める時間は比較的安定している。お客さんがいる間は開けているけれど、いなくなればさっさと閉めてしまう。
最近は残業もしない。時間がくれば全てを後回しにして、ざるに入ったお金を数えて、お釣り金以外を財布に入れて帰る。
日銭日銭日銭である。

売り上げの目標は1万円。5000円を越えなければ赤字で、これが続くと潰れる。
売れればプリンかアイスを買って帰ればよろしい。
正直、マジで超簡単に店は潰れると思っているのだが、均してみるとなんとなく一日1万円売れていて、
それ以上になって私を喜ばせてくれることもなく、いつのまにか店番する日々も二年を越えていた。

令和の古本屋1

シャッターを上げて、店の中に入って、自分の荷物を帳場奥に放り込んで、店を開ける。
古本屋の一日はどんな日であろうと、均一の台と箱と本を外に出すところから始まる。そうしないと身動きが取れないからだ。
ワゴンを出して、箱を出して、そこに本を詰める。既に詰まっているものもある。
その途中で、日除けをくるくると伸ばすのだけれど、そこで当然空を見上げることになる。

古本屋は雨が降ったら即死なので、曇りの日などは文字通り心も曇る。
朝から既に雨が降っている場合は、既に死んでいるので案外あきらめもつく。死人の心は穏やかだから。
ただ、「降りそうかな、降らなそうかな」という場合は悩ましい。心は千々に乱れる。
均一の台と棚の配置には、晴れの日用と雨の日用の形があり、一体どちらにしようかしらん。

一種の賭けである。天気をもって、一日の死生を問うとして一体どちらに賭ければよいか。
答えはもちろん決まっていて、そういった時は、私は常に「雨は降らない」に賭けて、
結果として勝ったり、負けたり、負けたりして日々を過ごしている。

「ジブリの教科書1 風の谷のナウシカ」(文春ジブリ文庫)

ジブリの教科書1 風の谷のナウシカ」(文春ジブリ文庫
私は宮崎駿が好きで、やっている長編アニメ映画製作を代表とする仕事ももちろん好きだが、言っていることも大概好きだ。そう私は心の狭いオジサンが好みなのである。

なので、宮崎駿のインタビューなんて大好物で、口を開けば文句を言っている様子を大変好ましく見ている。
この本は主にそんな宮崎駿の悪口雑言と、映画「風の谷のナウシカ」をおそるおそる語る人たちの文章で出来ている。

気の毒なのは、選に入って寄稿している人たちで、「ナウシカということならば是非」と勇んで引き受けたのだろうが、いざ初めてみると「やばいぞこれ」と気づく。結果として、「私ごときがナウシカを語るなんてはなはだ僭越ですが」と必ず前置きが入る感じで、それがなんともユーモラス。

宮崎駿黒澤明は、見て楽しむもので触れると火傷して当たり前なのだ。
それでも、識者がやばさに気づきながら必死にナウシカについて書いている。そして読めば、思わず自分もナウシカについて語りたくなってしまいたくなり、つまりは自分も火傷必至のとても良い本でした。

「火花」又吉直樹(文藝春秋)

「火花」又吉直樹文藝春秋
巷で話題沸騰の、「火花」をついに読んだ。もちろん単行本である。初出は2015年の3月とあるから、巷の沸騰が私のところにたどりつくまでは2年くらいかかることがこれで分かる。私も店を開けて半年。「ついに『火花』を買うところまで来たかー、と感慨深い(古本屋的な意味で)。

 

お笑い、おそらく「吉本興業的な」、お笑い世界の後輩と兄貴分のお話。
語り手である「後輩」は男の子の売れない漫才師。そして、兄貴分となる「神谷さん」が本作の主役となる。彼は天才的な漫才師としで描かれており、やはり売れていない漫才師である。しかし、後輩の男の子は「彼こそが漫才師だ」と信じ、弟子入りするところから物語はスタートする。
本編は、「どこまで行ってもブレイクしない自分」、と「ブレイクしようがどうであろうが漫才ってそういうものだろう」を体現しようとする神谷さんの間を行ったりきたりすることで進み、最後は後輩のコンビ解散、芸能引退で幕を閉じる。
途中の展開は、言うなれば「エピソードトーク」で話がつながれるわけだが、これはさすが本職と言うべきか面白い。「エキセントリックであることってどういうことか、を突き詰めてやってみたことがある」というのが、お笑い芸人さんの強みであると思うが、それが良く出ていると思う。


短くて、読みやすく、読後感も良い。なるほど、これが売れる小説なのかと納得する。お笑いの人たちが喧伝する、「先輩・後輩の世界」が果たしてどれくらい世間の共通認識となっているのか不明だが、そういうことに関しては読めば大体分かるのかもしれない。
これを書き終えた時に、作者はどんな感慨を持ったのだろうかと考えた。自分の業種のことを、フィクションとして書き上げる。長いコントを書き終えた感じだろうか。おそらく違うだろう。「俺は面白いと思うんだけどなー」とは思ったはずだ。
読みながら、信じること、支えになることがあることは良いことだなぁと思った。この小説は、作者が自身「お笑い芸人」であることが強い支えになっているように感じた。そして、なにより「神谷さん」に対する作者のほとんど信仰に近いような信頼がまぶしい。

だめだこりゃ

「だめだこりゃ」いかりや長介新潮文庫 平成15年)

ドリフターズいかりや長介の自叙伝ということになるのだろうか。「だめだこりゃ」を読んで、その余りのおもしろさにほとんど驚愕した。
本は荒井注の葬儀における弔辞から始まり、子供時代→バンドマン時代→ドリフターズ時代→踊る大走査線時代と進んでいく。日本芸能史におけるドリフターズの大きさを考えれば、その景色だけでも一つの価値があるだろう。それについて色々書きたい気持ちもあるのだが、それはぐっと飲みこもう。やはり一番の衝撃はその文章の巧さだ。

かつて、ひょうきん族よりドリフびいきだった、という私の立場を差し引いても、大したものだと思う。事例なしでは理解しづらいだろうから、長いけれど一文を引く。昭和十九年、小学校の卒業を待って碇矢長一少年は静岡に疎開する。

『そして四五(昭和二十)年、東京下町の大半を焼き尽くした三月十日夜の大空襲を、私は富士の裾野から望見することになる。B-29は東京を空襲するとき、御前崎から入り、富士山を目標に進んで、少し手前で東に進路を変えて東京上空に至るという。だから東京に空襲がある時は、かならず富士の私たちの真上を飛ぶ。三月十日は常にも増して、物凄くやかましい音を立てて、大群が飛んで行った。私は、これは只事じゃないとおもって、表に飛び出した。しばらくは音も消え、あたりは真っ暗闇だったが、やがて東の空が明るく輝きはじめると、間もなく富士山の右側までオレンジ色に染まっていった。私は茫然と立ちつくした。このとき、美しくさえ見えたその光の下で、私たちの住んでいた東京下町はすっかり焼き払われてしまったのだ。』

まさしく達意。
これと同じ文体で、ドリフターズのことも、米軍相手のバンドマン時代の思い出も、クレイジーキャッツのことも、十六年続いた土曜日の生放送のことも、とつとつと書かれていく。良い表現が思いつかず申し訳ないが、とても素朴で、こちらはほとんど涙ぐみながら読んでいた。これは間違いなく文章の力だ、とか頭の片隅で考えながら。

こんなに面白い思い出話は、なかなか無い。そして語り口も抜群だ。
ドリフは遠くになりにけり、だがその記憶を持つ人はこの本を最大限に楽しむことが出来る。そして、ドリフターズを知らない人にとっては、知らないおじさんの昔話ということになるのだろう。わー、若いって、もの知らないってかわいそうだなぁと思った。こんなに面白いものが100円なのにな。

それ一つ

古本屋をはじめて、と書くとその起点が曖昧になって、どの話をしているのかとなり…… そんなことを考えていたらもう既に面倒くさくなっているのだが、今日は約束だから書く。
店の中に、客を入れ始めてもうすぐ三か月くらいになる。

本来なら面はゆい初商いや、印象的なお客さんの面影などを書くべきなのだろうが、その類の記憶は一切ない。最初に売れた本も、初日の売上も覚えていない。おこがましいことだが、もう10年以上もこんなことを繰り返しいるような気がしている。いや、本当におこがましい。

私にとっては、ネット仕事で机の前に座っているのも、即売会で立っているのも、店の帳場に座っているのも地続きで、さほど違いのあるものだと思わなかったということなのだろう。古本を買って、ある程度掃除して、値段を付けて売る。確かにやっていることに違いはない。全く。

ただ、店売りの特徴というのもあることが体感出来た。お店をやって開けていると毎日お客さんが来る。当たり前だが、重要な話だ。そして、対応するのは私しかいない。これは即売会との大きな違いだ。そして、何より店はネット、即売会に比べてダントツに「売れない」。

即売会なら三日で立てる売り上げを、一か月かけてエッチラと売るのがわが店である。この前は月曜日の雨で一日千円しか売れず、バイトさんが淋しくて泣きそうになっていた。本来なら泣きそうなのは私のはずだが、先に泣かれてしまってはそうもいかない。こういうのは早い者勝ちだ。

こう書くと、なんだか店の悪口を書いているみたいだが、現状そうなのだから仕方がない。ただ、もう一つこれは個人的な事柄だが、とにかく店番は楽しい。ダントツに楽しい。お客さんが去って、ポツンと一人で店にいる時、ふと「なんかとても楽しいんですけど」と思う。

買ってきた本を棚に並べるのが楽しい。本が変われば、棚を並べなおすのも楽しい。お客さんの動きを見るのも楽しい。次にどんな棚にするのか考えるのも楽しい。単純に売れれば楽しいし、なんなら売れないのも楽しい。「うわぁ、マジこの棚売れないな。うけるー」みたいな。

私は、自分が古本屋であることに特別な意味を感じていない。「職業的なプライド」みたいなものは、あることはあるのだけれど、人を押しのけてまで持つべきものだとも思えない。そもそも古本屋なんて、と書くと「またその話か」となるのでやめる。悪口を書こうとしたと思ってくれ。

ただ仕事は楽しくて。私の仕事と言えば「古本を買って、古本を売る」というたった一つのことだから、そのたった一つを楽しく、そして無残に繰り返している。