初市は八房の得

泥縄結いの仕事もひと段落つき、無事縄も納品して少し穏やかな気分の木曜日。神田神保町の市場も始まっているので、入札に出かけることにしました。
事務所から会館までは、徒歩でジャスト10分。往復すると、散歩にちょうど良い時間です。まぁ、普段は月曜日以外はあまり行かないのですが。

木曜日の市会の初市でしたから、明けましておめでとうやらの新年の挨拶がそこかしこで聞かれます。ただ、私は友達が少ないので、ほとんどただ黙って見て回るだけです。それでも少し華やいだ感じの雰囲気や、入り口におかれているミカンを見ると、なんとなくご相伴預かった気分。

ニ十分もすれば見終って、すぐに帰途につきました。帰り際にミカンを一個失敬したのですが、結構甘くておいしかったです。
ボールペンも持たずにうろうろしていたので、一つも入札せずにおしまい。市場に行くと損ばかりしている気がしますが、今日はみかん一個分得しました。

まぁ、何も買わず、出かけて行った分だけ損してるじゃないかという考え方もあるんでしょうが、私の一時間とミカン一個ならば若干ミカンの方が上かなと。一年かけて育ったにもかかわらず、私なんぞに食べられてしまうとは。蜜柑なんたる不覚。皮を剥かれて、ペロリ一口。

時間がない 時間もない

締め切りに追われているという話を昨日したのだが、仕事自体は今終わったところだ。肩の荷が下りた。セーフかアウトかという話で行けば、ギリギリアウトというところだろうか。アウトにギリギリも何も無いのだが。

「アウトは少しでも少ない方がいいですよね?」と尋ねられれば、大方の人は納得いかない顔つきではあるが、頷いてくれることと思う。まぁ、これは「アウトになってしまってことは仕方がない」と先に織り込んでしまう誘導尋問だから、確かに汚い手口だ。

ただ、そう分かっていながら、その手を使い続けなければならない悲しさというものもある。例えば、「実力不足」を「かける時間」で補う人であれば、こういうことも頻繁に起きることとなる。
なるほど、他ならぬ自分のことで、もう既に次の締め切りの足音が背中の方から聞こえている。

「時間がない」というのは言い訳にならないということは、重々承知しているつもりなのだが。一日が二十四時間しかないことに不満を言って、それが四十時間になったとしても、私はやはり「まだ足りぬ」と文句を言うだろう。幾ら増えても足りないのだから、いっそ減らそうかとも思って、最近は思う存分眠ることにしている。

締め切りの真上

古本屋には、「即売会」と「目録」という文化があって、たった今もそれに追われて目を白黒させている。その二つに関しては、おいおい説明する機会があるかもしれない。お、内向き。
まぁ、課題の提出期限が迫っていると思っていただければ。

その提出期限がいつかといえば、今日だ。後、一時間八分残っている。まぁ、間に合うかと尋ねられれば間に合わない。問題ないのかと聞かれればもちろん大いにあるのだが、背に腹は代えられぬ。出来んもんは出来ん、と見栄を切るが心中は大いに焦って本を取り出したり崩したりしている。

私は、大体年に16回締め切りがあって、その全てについてこういう泥縄を繰り返してる。イタチごっことも言う。イタチごっこのイタチは、追っているのか追われているのか知らないが、私は必ず追われる方で、月に一回以上のペースだ。その内、前にいる自分に追いつくだろう。もちろん冗談だ。

遅刻はしても、結局出来ないということはないというのは、全ての古本屋がそうで、それが「最低限守るべきところだ」となんとなく皆が思っているからだろう。まだ目録の白紙の頁は見たことがない。まぁその程度の苦労ということで、古本屋ならば誰でも何とかなる仕事ということだ。

こういう、どこか文化祭の準備めいたことを見ると、「なんとなく楽しそうだな」と思う向きもあるかもしれない。ただ、それはとんでもない勘違いで、その文化祭が毎月ならどうだ。時には隔週だとすればどうだ。出し物は毎回変えなければならないんだぞ、となぜか恫喝してこの文を終える。

今日もやってます

一月に入って、第一回目の月曜日としては、4日というのは早すぎる感じもしなくもなく。ただ、店員さんは文句も言わず出てきてくれて、店のシャッターが今年初めて開きました。机で仕事をしてると、ガラガラとシャッターが目の前で上がるという風景。今年は何回見るのかね。

二人で昼食を取りに出かけたのですが、いつもの店は開いていたり開いてなかったり、まばら。大体、明日がスタートの店が多いようです。まぁ、昨日は中華料理屋さんが一軒しかやっていなかったので、随分と人が戻ってきた感じ。というか、あの店はどうして昨日やっていたのでしょうか。

学生がいないので、町の空気は普段より大分静か。しばらく、静かが続いていくんでしょう。目の前を通り過ぎる、運送会社の飛脚や猫たちも、どこかのんびりとしているように見えます。「全然休めなくて大変だな」と思ったのですが、そう思った自分も必死に本のカバーを拭いていることに気づきました。

いらっしゃいません

今日は、事務所に出かけてみた。
たどりついてみると、当然だけれど昨年末出て行ったままの姿だった。
日曜日だし、三が日なので、今日は私一人なのだけれど、正面のシャッターを開けようかどうか少し迷った。明るさが欲しいような気もしたので。

まぁ、結局めんどうくさいが勝って、そうはしなかったのだけれど。
事務所の正面はガラス張りになっていて、私はそのガラスに正面を向く形で机を置いて、そこで働いている。覗かれたら睨み返し、誰か入ってきたそうなそぶりが見えたら、目で追い払うためである。

言うなれば、誰も入ってこないように「監視するため」にそこにいるわけで、これは客商売という意味ではほとんど何を言っているのか分らないレベルの話だと思う。ので、少し説明すると、うちの棚に並んでいる本は、値段も入っていないし、ついで言えば、お客さんを相手する人手も無いのだ。

ジャンルも並びもランダムだから、お客さんが見てもパッと本は探せない。おまけに、取り出した位置に戻してもらわないと、次はこちらが探す時に迷うことになる。つまり、本を適当に触って欲しくなんてない。まずネットで見て在庫を確認してから来てもらいたい、ということになる。

突き詰めれば、「誰が客かはこっちが決める」ということなのだが、これを言うと、言われた方は嫌な気持ちになりがちだと思う。私もそう言われればカチンと来るかもしれない。だから、まず私が入口に陣取って、誰も入ってこないように目を光らせているのは所以のないことではないのだ。

土曜日の過ごしかた

1月2日だからと言って、とりたてて特別だとも思えず、今日はただの土曜日だろう、と仕事でもしようかと思っていた。まぁ、さびしくも用事がないという内情もあるのだけれど、「無くて悪いか」と開き直ったわけだ。

ただ、ふと去年の帳面仕事を引越しにかまえけて全くやっていないことを思い出した。「思い出したことをもう一度忘れてみせる」というのは、私が齢を積んで得た技術で、得意なもんなのだが、仕事としては今日やるのに丁度よいような気がしたので取りかかった。

領収証やファイルの類は自宅にあるので、自宅仕事だ。まぁ、売れない本屋の帳面などさしたる量もなく、4時間くらいで大体片付いた。適当すぎて、通帳を確かめなければ分からない箇所があって完全には終わらなかったのが情けない話だが、焼酎のお湯割りを飲みながらやって、ふんわりとやめた。

今年は、しばらくの間、内向きになって生きようと思っているので、今日はなかなか順調な一日だった。内向きに生きようと思ったのは、年末にいくつか本屋さんに立ち寄って、そうしようと思ったからなのだが、この話は面倒なのでまたいつか、と書いておいて終わる。うむ、なかなか内向き。

来年の、一年前

1月1日には、いつもこどもを見るのだけれど、当たり前のことながら、毎年一つづつ年を取っていく。
年齢的には、1歳、3歳、5歳という感じだろうか。去年の生まれたばかりで、手に手袋をはめて自動的に手足をバタバタさせていた子が、すっかり人間になっていた。

すごい良く歩いている。その子は、来年の今頃は言葉を話しているのかもしれない。
3歳、5歳のこどもたちの方と来たら、こちらはもうエネルギーの塊みたいなもので、そばに来るとこちらは「ちょっと引く」ような感じだ。平凡な比喩で申し訳ないが、つい台風を当てはめたくなる。

ある程度時間がたって、くたびれて来た頃に少し遊んでもらったのだが、それでもなんだかもう「あり余って」いて、なんだか気の毒なくらいだった。こんなものが二つも家の中にいたら、お母さんもお父さんももう大変なことだろう。こちらも陳腐だが、つい戦争と書きたくなってしまう。

親の苦労はこどもの苦労でもあるだろうから、仲が良かろうと悪かろうと、家の中では苦労に満ちているのだろうが、どこか動物園じみたそれは、とても素晴らしくて自然のことのように思える。なので、私の中ではとても良いものとしてそれはある。時間なんてたたなければいいのに。

電車に乗って、帰宅する。今日あったことは明日にはもう大体忘れていて、私は見慣れた日常に帰って行くのだけれど、このどこか楽しげな記憶は、頭の中の戸棚にしまっておく。また会おうね。