今日もやってます

一月に入って、第一回目の月曜日としては、4日というのは早すぎる感じもしなくもなく。ただ、店員さんは文句も言わず出てきてくれて、店のシャッターが今年初めて開きました。机で仕事をしてると、ガラガラとシャッターが目の前で上がるという風景。今年は何回見るのかね。

二人で昼食を取りに出かけたのですが、いつもの店は開いていたり開いてなかったり、まばら。大体、明日がスタートの店が多いようです。まぁ、昨日は中華料理屋さんが一軒しかやっていなかったので、随分と人が戻ってきた感じ。というか、あの店はどうして昨日やっていたのでしょうか。

学生がいないので、町の空気は普段より大分静か。しばらく、静かが続いていくんでしょう。目の前を通り過ぎる、運送会社の飛脚や猫たちも、どこかのんびりとしているように見えます。「全然休めなくて大変だな」と思ったのですが、そう思った自分も必死に本のカバーを拭いていることに気づきました。

いらっしゃいません

今日は、事務所に出かけてみた。
たどりついてみると、当然だけれど昨年末出て行ったままの姿だった。
日曜日だし、三が日なので、今日は私一人なのだけれど、正面のシャッターを開けようかどうか少し迷った。明るさが欲しいような気もしたので。

まぁ、結局めんどうくさいが勝って、そうはしなかったのだけれど。
事務所の正面はガラス張りになっていて、私はそのガラスに正面を向く形で机を置いて、そこで働いている。覗かれたら睨み返し、誰か入ってきたそうなそぶりが見えたら、目で追い払うためである。

言うなれば、誰も入ってこないように「監視するため」にそこにいるわけで、これは客商売という意味ではほとんど何を言っているのか分らないレベルの話だと思う。ので、少し説明すると、うちの棚に並んでいる本は、値段も入っていないし、ついで言えば、お客さんを相手する人手も無いのだ。

ジャンルも並びもランダムだから、お客さんが見てもパッと本は探せない。おまけに、取り出した位置に戻してもらわないと、次はこちらが探す時に迷うことになる。つまり、本を適当に触って欲しくなんてない。まずネットで見て在庫を確認してから来てもらいたい、ということになる。

突き詰めれば、「誰が客かはこっちが決める」ということなのだが、これを言うと、言われた方は嫌な気持ちになりがちだと思う。私もそう言われればカチンと来るかもしれない。だから、まず私が入口に陣取って、誰も入ってこないように目を光らせているのは所以のないことではないのだ。

土曜日の過ごしかた

1月2日だからと言って、とりたてて特別だとも思えず、今日はただの土曜日だろう、と仕事でもしようかと思っていた。まぁ、さびしくも用事がないという内情もあるのだけれど、「無くて悪いか」と開き直ったわけだ。

ただ、ふと去年の帳面仕事を引越しにかまえけて全くやっていないことを思い出した。「思い出したことをもう一度忘れてみせる」というのは、私が齢を積んで得た技術で、得意なもんなのだが、仕事としては今日やるのに丁度よいような気がしたので取りかかった。

領収証やファイルの類は自宅にあるので、自宅仕事だ。まぁ、売れない本屋の帳面などさしたる量もなく、4時間くらいで大体片付いた。適当すぎて、通帳を確かめなければ分からない箇所があって完全には終わらなかったのが情けない話だが、焼酎のお湯割りを飲みながらやって、ふんわりとやめた。

今年は、しばらくの間、内向きになって生きようと思っているので、今日はなかなか順調な一日だった。内向きに生きようと思ったのは、年末にいくつか本屋さんに立ち寄って、そうしようと思ったからなのだが、この話は面倒なのでまたいつか、と書いておいて終わる。うむ、なかなか内向き。

来年の、一年前

1月1日には、いつもこどもを見るのだけれど、当たり前のことながら、毎年一つづつ年を取っていく。
年齢的には、1歳、3歳、5歳という感じだろうか。去年の生まれたばかりで、手に手袋をはめて自動的に手足をバタバタさせていた子が、すっかり人間になっていた。

すごい良く歩いている。その子は、来年の今頃は言葉を話しているのかもしれない。
3歳、5歳のこどもたちの方と来たら、こちらはもうエネルギーの塊みたいなもので、そばに来るとこちらは「ちょっと引く」ような感じだ。平凡な比喩で申し訳ないが、つい台風を当てはめたくなる。

ある程度時間がたって、くたびれて来た頃に少し遊んでもらったのだが、それでもなんだかもう「あり余って」いて、なんだか気の毒なくらいだった。こんなものが二つも家の中にいたら、お母さんもお父さんももう大変なことだろう。こちらも陳腐だが、つい戦争と書きたくなってしまう。

親の苦労はこどもの苦労でもあるだろうから、仲が良かろうと悪かろうと、家の中では苦労に満ちているのだろうが、どこか動物園じみたそれは、とても素晴らしくて自然のことのように思える。なので、私の中ではとても良いものとしてそれはある。時間なんてたたなければいいのに。

電車に乗って、帰宅する。今日あったことは明日にはもう大体忘れていて、私は見慣れた日常に帰って行くのだけれど、このどこか楽しげな記憶は、頭の中の戸棚にしまっておく。また会おうね。

中央市会だより(12月21日版)

 

中央市会だより(12月21日版)
まずお知らせしなければならないのは、今日で2015年の中央市会は最後とな
ります。一足先に、という感じのタイミングなのですが、ご挨拶させていた
だきます。今年もお付き合い、本当にありがとうございました。
昔、灯台守を題材にした映画があって、
「星を数えて 波の音聞いて ともに過ごした 幾歳月の
 よろこび悲しみ 目に浮かぶ」
という歌詞を持った歌がヒットしたことがあったそうです。
喜びも悲しみも幾歳月。まぁ、私の場合は佐多啓二と違って本当に「見てる
だけ」なんですが、残りの任期半年ほど中央市会を見守りたいと思います。
高峰秀子みたいなお嫁さんが来てくれないかしらん。
それでは来年も、よろしくお願いします。あ、あと、今日も。

中央市会だより(12月14日版)

中央市会だより(12月14日版)
中央市会も、今日を含めて残すところ後二回となりました。
「一体、年末にどんなドラマが待ち受けているのだろう」、と言うほど大仰
なものではありませんが、ある種の感慨のようなものはありますね。
そう言えば、今日は赤穂浪士たちの討ち入りの日。時間的には、もう吉良さ
んは討ち取られて、首になって泉岳寺に供えられている頃でしょうか。なむ

幸い、平成の我々は恨まれているかどうかはともかくとして、暖かくて安全
です。
会館も、両国吉良邸と違って、組合員なら誰でもウェルカム。
神保町まで、ぜひ討ち入りに、いらっしゃって。

中央市会だより(12月7日版)

中央市会だより(12月7日版)
「一年の計は元旦にあり」と心に決めて、一年をスタートさせました。
中央市会は、2月に大市があるので新年早々大忙し。バタバタして片付いたころにはもう4月が目の前に。日本では、一年をもう一度始め直すことが出来る月があります。そう、それが4月。小学生だった頃からの伝統です。春先は気候が良いのでのんびりと仕事をしていると、はや6月。暑いとやる気がしない、というのはいたしかたがないと8月。「光陰矢の如し」と10月。焦るばかりで空回りの11月。目を背けていた後ろの方にいた現実が、とうとう前に回って立ちふさがっているような12月。
しかし、長年の経験から分かっていることがあって、こんな感じも大晦日にはもう落ち着いているのです。そう「終わり良ければ全て良し」。全力でそこに向かって参りましょう。一年最後の月となります。どうぞ、よろしくお願いいたします。