どことなく楽しそうで2

古本屋をはじめる日があるとすれば、
それを閉じる日がいつか来るのだと思う。
ここ数年の間、その日の迎え方みたいなものをゆっくりと考えてきて、自分の足を置く場所も、少しづつそちらの方に動かしている。以前にも書いたのだが、私は古本屋という商売を気に入っていて、その理由は、この仕事が今まさに滅びようとしているからだ。

突然こんなことを書いても戸惑う向きも多いと思うが、東京オリンピックを機会に引退しようかと考えていた。
突然書いてはいるものの、昨日今日言い出したことではなく、2013年、オリンピックが東京で行われることが決定した際に、私はそう宣言したのである。雁首並べた古本屋の真ん中で。
全てのことが右肩下がりで、一人古本屋が増えたと思えば二人減り、もう一人入ったと思えば三人減るようなこの業界。あと二十年続くのか、五十年続くのか、はたまた百年続くのかは知らんが、辞めるのはもう早いもん勝ちみたいなもんだろう。閉店する店を片付けるのを手伝うのはいい。この業界の発展に貢献してくれた歴代の先人たちにも、私は大いに敬意を払っている。ただ、このままこの状況が続くとして、「私の荷物」は「一体誰が」片付けてくれるのか。自分で自分の死骸を火葬場に運ぶのか。そんな様(ざま)になることは、一切お断りである。どうせ、お前ら先に死ぬだろ。
これに対する周りの反応は、「あーあ、また始まったよ」という感じであった。

中には、「本屋(古本屋は自分たちのことを本屋と呼ぶ)を止して何するんだよ」と野次って来る人もいたけれど、「そんなことはお前たちの知ったことか」と、返したことは言うまでもなく。お前らは俺の荷物を片付けてりゃいいんだ。なんなら買え。ということである。
たまに古本屋の集まりに出かけると、市場にしか行くことがない半引きこもりが、レジャーのごとく本を売り買いするフリをして、あたかも働いているかのように見せかけて、さしたる税金も払わず、「あー売れない売れない」などとのたまっているように見えてきて、それはようするに自分のことで、そう思うとようするに発狂しそうになる。
なので、40年も社会にさしたる貢献もしてこなかったことを悔い改めるべく、引退を志したのだ。つまりは社会復帰である。古本屋などという商売は、言ってみれば普段は森の奥に棲んでいて、時に怪しげな薬を売りに町に降りて来る魔法使いのような存在である。まともに社会を構成する一員になれるわけがない。
私の「引退」には、そういう恐ろしいほど正しい目的があったのだ。

さて、昨日市場に行ったら、私のアドバイスにも関わらず「誤って」古本屋になってしまった後輩の一人が近づいてきて、挨拶をしてくれた。礼儀正しい良い子だ。そして、その子がおもむろに続けた。
「大士さん(私のことだ)、やりましたね」
そう言われて、私はなんのことか良くわからなかったので、どういう意味? と聞き返した。
「いや、東京オリンピック。なくなっちゃったじゃないですか。これで引退は無しですね」
そこまで言われても、まだすぐにはピンとこなかった。そして、しばらく考えてようやく頭の中で話がつながる。
「すごいですね。分かってたんですか? オリンピック無くなるの。いやぁ、マジですごいですね。ちょっとありえないですよ」
もちろん東京オリンピックが延期になったことを私は知っていたのだが、七年間もの月日が自分のこととその事実を遠ざけ、結びつかなくなっていたのだ。あれ、俺の引退8月なんだけど、東京オリンピックなくなっちゃったの? あれ、もう残り半年切ってたんだけど、俺の引退なくなっちゃったの? どういうこと?
「神様に求められちゃったんじゃないですか。お前は古本屋やれって。持ってますね。いやあ、まじでスゴイわ」
コロナウィルスは俺が作ったわけじゃないし、神様は古本屋の方なんて向いてないと思うし、私は寺や神社に行っても絶対に拝まないのだが。
あまりの衝撃に思考が停止する。

そんなことにも気がつかないのか、と思われるかもしれないが、でもさ、普通オリンピックってなくなる? 選手でもないのに、自分の中に「オリンピックがなくなった」ということを発見できる? 私は発見できなかった。そして、自分の引退が少なくとも一年間は延長したことを理解したのだった。
いや、正直参ってしまった。そして、私の七年間のためにも、やはりオリンピックはやった方がいいんじゃないかと思う。